ピエール瀧が出演しているものの予定通りに公開された映画『麻雀放浪記2020』を観た。
上映館が少なく、しかも短期間で上映終了になりそうだったが、ギリギリで観ることができた。
チケット売り場に「本作品にはピエール瀧容疑者が出演していることを了解ください。」といった掲示があった。また、映画冒頭にも同様の表示が挿入されていた。その時点で「観たくない」と思って退場する人には払い戻しするのだろう。
そこまでして、「観たい人だけが観る」という形を整えての上映には何ら問題がないと思う。
このブログには、以前にも「作品に罪はない」と書いてきた。
映画にしろ、ドラマにしろ、音楽であっても、多くの人の力を集結していったん「作品」として創作されたものは、たった一人の犯罪や不始末のせいで安易に「お蔵入り」などさせてはならないと私は思う。
「作品」は作者たちの手を離れ、独自の生命を持つと思うのだ。
そうは言っても、作品の内容や公開形態によっては、「観たくない人の目にも触れ不快な思いをさせる」とか「犯罪者が主役であって、作品の評価の太宗を担っている」といったことを考慮して、しばらくの間公開を控えるといった判断があっても仕方がないとも思う。しかし永遠に作品の生命を奪う権利は誰にもない。
映画『麻雀放浪記2020』そのものがどうだったのかを書く。ネタバレあり。
1945年の戦後日本で、九連宝燈を上った途端に雷に打たれて2020年にタイムトリップした麻雀打ちの哲(斉藤工)。突然発生した戦争により2020東京五輪は中止となっていた。哲はコスプレタレントのドテ子(チャラン・ポ・ランタンのもも)や彼女のマネージャーのクソ丸(竹中直人)などと出会い、「昭和哲」という学ラン・褌スタイルの雀士としてメディアの人気者になる。真剣勝負の中でもう一度九連宝燈を上って昭和に戻ろうとするが・・・。
荒唐無稽な設定、ストーリーは結構楽しめたが、設定をもう少し丁寧に作り込み、説明してほしかった。2020年に起きた戦争とはどんな戦争だったのか。「平和ボケだった日本はあっという間に負けた」「アメリカの基地があった所を中心に攻撃された」という説明はあったが、敗戦後すぐに普通の日常生活が戻っていたり、憲法改正により自衛隊の国軍化が予定されていたりするが、その間の経緯が想像できない。また、2020東京五輪は中止になったが、その替わりにAI技術を誇示するため麻雀五輪を開催することになったという展開にもついて行けない。
その麻雀五輪開催を画策した組織委員長役がピエール瀧で、気持ち悪い変態風ではあるがそれほど印象的な役ではなく、出演シーンも少なかった。彼のせいで映画全体がお蔵入りになってしまったら、斎藤工も、ももも、竹中直人も、そしてAI内蔵のロボットユキ役のベッキーも気の毒すぎる。
斉藤工は褌姿にもなって熱演だが、いつもの斉藤工だった。それ以上にドテ子役のももが素晴らしかった。本職は姉妹デュオのミュージシャンのようだが、ハスキーな声と体当たり演技に釘付けになった。実質的に彼女が主役のアイドル映画として観ていた。タイムトリップした男に恋するという設定が同じ『時をかける少女』の原田知世に匹敵すると言ったら大袈裟か?竹中直人はこういうB級作品にいつも出ている印象だが、作品に締まりをもたらしていた。AIユキ役のベッキーも怪演と言っていいだろう。
昭和の博徒である哲にとって、2020年は「ヒリヒリする勝負」ができない居心地の悪い時代に感じられた。しかしシマウマとしかセックスできないドテ子も、口先八兆で危ない橋を渡り続けるクソ丸も、ドテ子の追っかけオタク青年も、市井の小博打に興じる子どもたちも、みんなヒリヒリする人生を生きている。時代が変わっても人間の本質はそう変わるものではない。そして哲も、AIユキとの対戦では、人間臭いイカサマ技も駆使して、ヒリヒリする勝負を展開する。
そんな真面目に論評するのも照れくさくなるようなB級映画だ。興行収入を稼いだり、賞を取ったり、後世に残ったりする映画ではない。それはピエール瀧が出演していようがいまいが関係ない。1984年の和田誠監督、真田広之主演の名作映画『麻雀放浪記』とは全く違う。
しかしそんなB級映画でも、公開されてこそ酷評され、呆れられ、それでもまあ良いところもあったななどと語られるのだ。お蔵入りしてしまったら何もなかったことになってしまう。公開を英断した制作者、配給会社、映画館に感謝する。
上映館が少なく、しかも短期間で上映終了になりそうだったが、ギリギリで観ることができた。
チケット売り場に「本作品にはピエール瀧容疑者が出演していることを了解ください。」といった掲示があった。また、映画冒頭にも同様の表示が挿入されていた。その時点で「観たくない」と思って退場する人には払い戻しするのだろう。
そこまでして、「観たい人だけが観る」という形を整えての上映には何ら問題がないと思う。
このブログには、以前にも「作品に罪はない」と書いてきた。
映画にしろ、ドラマにしろ、音楽であっても、多くの人の力を集結していったん「作品」として創作されたものは、たった一人の犯罪や不始末のせいで安易に「お蔵入り」などさせてはならないと私は思う。
「作品」は作者たちの手を離れ、独自の生命を持つと思うのだ。
そうは言っても、作品の内容や公開形態によっては、「観たくない人の目にも触れ不快な思いをさせる」とか「犯罪者が主役であって、作品の評価の太宗を担っている」といったことを考慮して、しばらくの間公開を控えるといった判断があっても仕方がないとも思う。しかし永遠に作品の生命を奪う権利は誰にもない。
映画『麻雀放浪記2020』そのものがどうだったのかを書く。ネタバレあり。
1945年の戦後日本で、九連宝燈を上った途端に雷に打たれて2020年にタイムトリップした麻雀打ちの哲(斉藤工)。突然発生した戦争により2020東京五輪は中止となっていた。哲はコスプレタレントのドテ子(チャラン・ポ・ランタンのもも)や彼女のマネージャーのクソ丸(竹中直人)などと出会い、「昭和哲」という学ラン・褌スタイルの雀士としてメディアの人気者になる。真剣勝負の中でもう一度九連宝燈を上って昭和に戻ろうとするが・・・。
荒唐無稽な設定、ストーリーは結構楽しめたが、設定をもう少し丁寧に作り込み、説明してほしかった。2020年に起きた戦争とはどんな戦争だったのか。「平和ボケだった日本はあっという間に負けた」「アメリカの基地があった所を中心に攻撃された」という説明はあったが、敗戦後すぐに普通の日常生活が戻っていたり、憲法改正により自衛隊の国軍化が予定されていたりするが、その間の経緯が想像できない。また、2020東京五輪は中止になったが、その替わりにAI技術を誇示するため麻雀五輪を開催することになったという展開にもついて行けない。
その麻雀五輪開催を画策した組織委員長役がピエール瀧で、気持ち悪い変態風ではあるがそれほど印象的な役ではなく、出演シーンも少なかった。彼のせいで映画全体がお蔵入りになってしまったら、斎藤工も、ももも、竹中直人も、そしてAI内蔵のロボットユキ役のベッキーも気の毒すぎる。
斉藤工は褌姿にもなって熱演だが、いつもの斉藤工だった。それ以上にドテ子役のももが素晴らしかった。本職は姉妹デュオのミュージシャンのようだが、ハスキーな声と体当たり演技に釘付けになった。実質的に彼女が主役のアイドル映画として観ていた。タイムトリップした男に恋するという設定が同じ『時をかける少女』の原田知世に匹敵すると言ったら大袈裟か?竹中直人はこういうB級作品にいつも出ている印象だが、作品に締まりをもたらしていた。AIユキ役のベッキーも怪演と言っていいだろう。
昭和の博徒である哲にとって、2020年は「ヒリヒリする勝負」ができない居心地の悪い時代に感じられた。しかしシマウマとしかセックスできないドテ子も、口先八兆で危ない橋を渡り続けるクソ丸も、ドテ子の追っかけオタク青年も、市井の小博打に興じる子どもたちも、みんなヒリヒリする人生を生きている。時代が変わっても人間の本質はそう変わるものではない。そして哲も、AIユキとの対戦では、人間臭いイカサマ技も駆使して、ヒリヒリする勝負を展開する。
そんな真面目に論評するのも照れくさくなるようなB級映画だ。興行収入を稼いだり、賞を取ったり、後世に残ったりする映画ではない。それはピエール瀧が出演していようがいまいが関係ない。1984年の和田誠監督、真田広之主演の名作映画『麻雀放浪記』とは全く違う。
しかしそんなB級映画でも、公開されてこそ酷評され、呆れられ、それでもまあ良いところもあったななどと語られるのだ。お蔵入りしてしまったら何もなかったことになってしまう。公開を英断した制作者、配給会社、映画館に感謝する。