4月18日オペラ座にてバレー「Romeo und Julia」観戦の後で、「孤独のバレリーナ」DVD鑑賞(ナッキー)
生まれて初めてバレーを観ました。
私は、歌は好きだけど、ダンスは嫌いなので、海外出張中で、アイドルが鑑賞できない時に、
ダンスはあるけど歌もあるミュージカルとオペラは観るけど、
バレー(ダンス)ばかりで、歌がない(←という最低限の知識はある)バレーは敬遠していました。
しかしながら、生まれて初めてバレーを観ようと思ったきっかけは、昨年の見逃した君たちへチームK2「ラムネの飲み方」公演の、秦佐和子「孤独なバレリーナ」論争。
問題を提示したときめき研究家さんの感想は、記憶をたどると、
たとえ、下手でも素敵なら許されるのが、アイドルのパフォーマンスであるけど、秦佐和子のバレリーナは、もう少しバレーらしいレベルに高めて欲しい。
KCさんの反論は、
アイドルのダンスパフォーマンス(秦佐和子のバレリーナ・パフォーマンス)は、下手か上手かという判断基準で鑑賞するのは、アイドルの鑑賞方法としては誤り。素敵か否かという単純な(純粋な)目で見るべき。自分はバレーを観たことがないことが幸いしたのか、不純な目で秦佐和子を観ないですんだ。(以上は私の記憶ベースの要約、文末にお二人の原文を引用)。
ハンブルグのオペラ座のバレーは、19時から22時まで。ホテルに帰って、すぐに、2012年見逃した君たちDVDで、「孤独なバレリーナ」を映しだし、
本物のバレーを観た直後に、秦佐和子のバレリーナ姿を、比較鑑賞。
私は秦佐和子休演の公演を栄の旧シアターで見た時は、バレリーナは石田安奈だった。
ダンスパフォーマンス至上主義者から絶賛されている石田安奈だけのことはあり、秦佐和子よりは上手かった。
バレー経験のある須田亜香里も、サプライズで、バレリーナとして踊ったことがあり、バレー鑑賞経験のあるときめき研究家は、
秦佐和子:アイドルであってももう少し高いレベルのバレリーナを希望だったけど、
石田安奈・須田亜香里:最低限のバレーのレベルはクリア と評価すると想像して、私の感想は、
オペラ座で本物のバレーを観た直後、秦佐和子と石田安奈のバレリーナで類推すると、
(バレリーナ)(歌唱力)
オペラ座が、美空ひばりなら、
石田安奈が、浅田美代子で、
秦佐和子が、風吹ジュンでしょうか。
80年代でたとえると、
(バレリーナ)(歌唱力)
オペラ座が、松田聖子なら、
石田安奈が、伊藤つかさで、
秦佐和子が、川田あつ子。
風吹ジュン・川田あつ子は、歌として成立していないので、
ときめき研究家さんが、たとえアイドルでも残念と評価したレベルのたとえ、
浅田美代子・伊藤つかさは、アイドルだけど、最低限のレベルには到達している、のたとえ。
五十歩百歩という評価は、KCさんの意見に近いように見えるかもしれませんがが、
アイドルのパフォーマンスは、五十歩と百歩の差が大事だという見方もあり、その意味でときめき研究家さんの意見にどちらかと言えば近いです。ナッキー
以下過去の記事を引用。
そして、評価が分かれる『孤独なバレリーナ』。
秦さんのソロのバレエ風ダンス、私はもう少し「上手い」のかと思っていた。体調が悪いこともあったのだろうが、頻繁にふらついたり、ポーズも決まっていないように見えた。そういう所がもう少し決まっていれば、印象もまた違うだろう。
私も秦さんに「上手い」バレエを求めてはいないが、身体の動きだけで表現するストイックな「バレエっぽさ」のようなものを感じさせてほしかった。(私はKCさんと違い、バレエを2回だけだが見たことがあるので、「バレエとはこういうもの」という固定観念に縛られていて不幸であるとも言える。)
『GIVE ME FIVE!』の演奏も、上手でなくてもいいが、演奏することの楽しさが溢れ出るような「バンドっぽさ」があるので素敵だと感じるのと同じだと思う。(ときめき研究家)
KCさん観戦記
ブログライター3人+投稿者の反省会では、バレリーナのソロダンスはあれでよいのか 「いくらアイドルのステージとはいえ、もっとレベルの高いものを見せるべきではないか」 という議論があったが、
秦佐和子推しの私は、秦佐和子を見ることができれば、どんなパフォーマンスでもよいので、発言せず。
本物のバレーを見たことがないので、比較の対象がなく、相対的に比較できない。上手なのか下手なのかは分からない。
知識のないことは幸運である。
アイドルとは、歌唱にしろ、ダンスにしろ、上手か下手かで判断するのではなく、素敵か素敵でないかで判断すべきだから。
秦佐和子のバレリーナは素敵だった。
「秦佐和子のバレー」が素敵なのではなく、「秦佐和子」のバレーが素敵なのである。
KCさん 新しい栄のシアターでの観戦記
この曲の秦佐和子は、「魅力があるなら、何を見せてもよい」「魅力があるなら、どんなものでも見たい」というアイドルの本質をついている。
四分間の間、秦佐和子を見続けて、アイドルの素晴らしさを堪能したという満足感。
ルックスの中では、首すじにひかれます。
秦佐和子という女性の内面の魅力が、文章に現れているように、
彼女の内面の魅力は、外見=顔にも、「孤独なバレリーナ」のダンスで見せる体全体に現れている。
この曲の性格上、真剣に踊り続ける秦佐和子が、私にはとても愛嬌のある姿に見えた。
出べそステージから4列目のセンターに座って見ていたので、孤独なバレリーナ秦佐和子が、二回、出べそステージで踊った時は、息を飲んでしまう。
引用終わり
補足:秦佐和子の孤独なバレリーナは、私には風吹ジュン・川田あつ子には見えませんが、ときめき研究家さんにはそう見えたのだろうと類推して書きました。ナッキー
生まれて初めてバレーを観ました。
私は、歌は好きだけど、ダンスは嫌いなので、海外出張中で、アイドルが鑑賞できない時に、
ダンスはあるけど歌もあるミュージカルとオペラは観るけど、
バレー(ダンス)ばかりで、歌がない(←という最低限の知識はある)バレーは敬遠していました。
しかしながら、生まれて初めてバレーを観ようと思ったきっかけは、昨年の見逃した君たちへチームK2「ラムネの飲み方」公演の、秦佐和子「孤独なバレリーナ」論争。
問題を提示したときめき研究家さんの感想は、記憶をたどると、
たとえ、下手でも素敵なら許されるのが、アイドルのパフォーマンスであるけど、秦佐和子のバレリーナは、もう少しバレーらしいレベルに高めて欲しい。
KCさんの反論は、
アイドルのダンスパフォーマンス(秦佐和子のバレリーナ・パフォーマンス)は、下手か上手かという判断基準で鑑賞するのは、アイドルの鑑賞方法としては誤り。素敵か否かという単純な(純粋な)目で見るべき。自分はバレーを観たことがないことが幸いしたのか、不純な目で秦佐和子を観ないですんだ。(以上は私の記憶ベースの要約、文末にお二人の原文を引用)。
ハンブルグのオペラ座のバレーは、19時から22時まで。ホテルに帰って、すぐに、2012年見逃した君たちDVDで、「孤独なバレリーナ」を映しだし、
本物のバレーを観た直後に、秦佐和子のバレリーナ姿を、比較鑑賞。
私は秦佐和子休演の公演を栄の旧シアターで見た時は、バレリーナは石田安奈だった。
ダンスパフォーマンス至上主義者から絶賛されている石田安奈だけのことはあり、秦佐和子よりは上手かった。
バレー経験のある須田亜香里も、サプライズで、バレリーナとして踊ったことがあり、バレー鑑賞経験のあるときめき研究家は、
秦佐和子:アイドルであってももう少し高いレベルのバレリーナを希望だったけど、
石田安奈・須田亜香里:最低限のバレーのレベルはクリア と評価すると想像して、私の感想は、
オペラ座で本物のバレーを観た直後、秦佐和子と石田安奈のバレリーナで類推すると、
(バレリーナ)(歌唱力)
オペラ座が、美空ひばりなら、
石田安奈が、浅田美代子で、
秦佐和子が、風吹ジュンでしょうか。
80年代でたとえると、
(バレリーナ)(歌唱力)
オペラ座が、松田聖子なら、
石田安奈が、伊藤つかさで、
秦佐和子が、川田あつ子。
風吹ジュン・川田あつ子は、歌として成立していないので、
ときめき研究家さんが、たとえアイドルでも残念と評価したレベルのたとえ、
浅田美代子・伊藤つかさは、アイドルだけど、最低限のレベルには到達している、のたとえ。
五十歩百歩という評価は、KCさんの意見に近いように見えるかもしれませんがが、
アイドルのパフォーマンスは、五十歩と百歩の差が大事だという見方もあり、その意味でときめき研究家さんの意見にどちらかと言えば近いです。ナッキー
以下過去の記事を引用。
そして、評価が分かれる『孤独なバレリーナ』。
秦さんのソロのバレエ風ダンス、私はもう少し「上手い」のかと思っていた。体調が悪いこともあったのだろうが、頻繁にふらついたり、ポーズも決まっていないように見えた。そういう所がもう少し決まっていれば、印象もまた違うだろう。
私も秦さんに「上手い」バレエを求めてはいないが、身体の動きだけで表現するストイックな「バレエっぽさ」のようなものを感じさせてほしかった。(私はKCさんと違い、バレエを2回だけだが見たことがあるので、「バレエとはこういうもの」という固定観念に縛られていて不幸であるとも言える。)
『GIVE ME FIVE!』の演奏も、上手でなくてもいいが、演奏することの楽しさが溢れ出るような「バンドっぽさ」があるので素敵だと感じるのと同じだと思う。(ときめき研究家)
KCさん観戦記
ブログライター3人+投稿者の反省会では、バレリーナのソロダンスはあれでよいのか 「いくらアイドルのステージとはいえ、もっとレベルの高いものを見せるべきではないか」 という議論があったが、
秦佐和子推しの私は、秦佐和子を見ることができれば、どんなパフォーマンスでもよいので、発言せず。
本物のバレーを見たことがないので、比較の対象がなく、相対的に比較できない。上手なのか下手なのかは分からない。
知識のないことは幸運である。
アイドルとは、歌唱にしろ、ダンスにしろ、上手か下手かで判断するのではなく、素敵か素敵でないかで判断すべきだから。
秦佐和子のバレリーナは素敵だった。
「秦佐和子のバレー」が素敵なのではなく、「秦佐和子」のバレーが素敵なのである。
KCさん 新しい栄のシアターでの観戦記
この曲の秦佐和子は、「魅力があるなら、何を見せてもよい」「魅力があるなら、どんなものでも見たい」というアイドルの本質をついている。
四分間の間、秦佐和子を見続けて、アイドルの素晴らしさを堪能したという満足感。
ルックスの中では、首すじにひかれます。
秦佐和子という女性の内面の魅力が、文章に現れているように、
彼女の内面の魅力は、外見=顔にも、「孤独なバレリーナ」のダンスで見せる体全体に現れている。
この曲の性格上、真剣に踊り続ける秦佐和子が、私にはとても愛嬌のある姿に見えた。
出べそステージから4列目のセンターに座って見ていたので、孤独なバレリーナ秦佐和子が、二回、出べそステージで踊った時は、息を飲んでしまう。
引用終わり
補足:秦佐和子の孤独なバレリーナは、私には風吹ジュン・川田あつ子には見えませんが、ときめき研究家さんにはそう見えたのだろうと類推して書きました。ナッキー